SEEDS ON WHITESNOW

 グナール・レツボールの非日常な二日間 by 目白バ・ロック音楽祭

期待していた目白バ・ロック音楽祭がとうとう始まりました。平日の公演は日中のものも多くて、さすがに行ける公演は土日周辺に限られてしまいますが、アントネッロやヴォーカル・アンサンブル・カペラといった邦人アンサンブルから、グナール・レツボールやニコラウ・デ・フィゲイレドという海外勢までの名手達、しかも会場は立教大学の第一食堂や自由学園明日館といった名建築とくれば、これは必然と足を運びたくなるというもの。なかでも、絶対に聴いてみたかったのは、アルス・アンティクア・オーストリアのリーダー、グナール・レツボールが登場する3日と4日の公演でした。どうやら、彼のCDは自動的に購入される仕組みに当方の体がなっているようで、このコンサートの切符も、当然ながら自動的に購入して、自動的に足を運んだ次第。

3日はアンサンブルのアウフシュナイターとムファット

まず3日の聖母病院チャペル(場所)でのコンサートは、アウフシュナイターとムファットを中心としたリクレアツィオン・ダルカディアの皆さんとのプログラム。オーストリア・バロックのビーバーと並ぶ大家、ムファットはともかく、ベネディクト・アントン・アウフシュナイターという名前は、このレツボール率いるアルス・アンティクア・オーストリアによる「教会シンフォニアの協和する甘き弦の調べ」作品4のCD(下写真)で初めて知った次第でした。例によって自動的に収集される仕組みに基づき、このアウフシュナイターも誰だそれ?と思いながら買って聴いてみたら、それはそれでびっくり。

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作曲: Benedikt Anton Aufschnaiter
Ars Antiqua Austria(@TOWERtowerHMV:なおジャケット写真は当方所有のもの)
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ビーバーやムファットのような、バロック音楽ではありつつも、どこかに神秘性とナラティブな要素を備えた、独特の音楽世界の延長ではなく、アウフシュナイターの作品4の響きは、まるでイタリアン・バロックのような洗練さを強く感じます。CDで初めて聴いた際、これはアルプスのコレッリと呼ぶのに相応しいのではないかと、そんな大胆な想像さえ、喚起させてくれる十分に充実した作品であるように感じました。でも、イタリア・バロックのような光沢の代わりに、レツボールが解説に寄せている「きわめてオーストリア的な音色の、洗練された独自の音楽言語にすっかり魅了されてしまいました」という言葉に伺えるような、ムファットやビーバーと共通の透明感ある響きも合わせて感じられます。すなわち、アウフシュナイターは、イタリアの影響下、オーストリアのカルチャーを引き継いだバロック末期の特別な存在だったように感じられます。

このアウフシュナイターの作品4はCDには8曲収録されているのですが、この日演奏されたのは2曲。それぞれの作品に聖人の名が付けられているのですが、この日は「聖グレゴリウスのソナタ」と「聖ルカのソナタ」。それ以外にはムファットの「音楽の花束」から第4番と第5番のソナタ、そしてヴァイオリンと通総低音のソナタがプログラムの俎上に挙げられていました。特に印象的のは前半のムファットの通総低音のソナタ、思索的にヴァイオリンがどこともなく彷徨うような部分が、とても印象に残っています。

ただし、会場の聖母病院チャペルがちょっと響き過ぎて、アウフシュナイターの2曲のシンフォニアでは、響きがちょっと団子状態になってしまったのが残念でした。レツボールのヴァイオリンに事故があったり、会場の換気がいまいちで、後半はかなり温度が上がってしまったなど、演奏者の皆さんは大変そうでした。アウフシュナイターの他の作品も聴いてみたいと思いますし、演奏そのものはとても素晴らしく聴かせて頂いたので、できれば今後とも共演を続けて欲しいと思います。

4日の無伴奏は、ちょっと言葉にならない、、、

そして4日は明日館(場所)での無伴奏ヴァイオリンの日。もうこの日は言葉にならないほど、圧倒されてしまいました。無伴奏作品ばかり、それも比較的マイナーな作品が中心のコンサートで、これほど音楽を聴くことに集中し、身も心も心地よく疲れ切ってしまった経験をしたのは、本当に始めてではないでしょうか。冒頭の2曲、CDにもなっているヴィルスマイヤー(下写真)とヴェストホフ、特に五線譜ではなく七線譜で書かれているというヴェストホフは、バッハの無伴奏ヴァイオリンの先駆けとして、十分に認知されるべき作品のように思いましたし、その次のテレマンのファンタジーも、ここまで多彩なニュアンスに溢れた作品だったとは、本当に意外な発見でした。

Vilsmayr: 6 Partitas [from UK] [Import] Vilsmayr: 6 Partitas [from UK] [Import]
Gunar Letzbor
Arcana (@TOWERtower)
by Amazon.co.jp

レツボールのヴァイオリンはなんと言って良いのでしょうか、バロック音楽において、表現というかメッセージとして聞き手に伝えなくてはならない要素を、必要十分に含んだ音楽を導き出していると言えるのでしょうか。微細なパッセージでも、その音があるべき姿を絶対に響かせて、決して舌足らずになることはない、でも過剰な自己表現という近代的な束縛から、ほぼ完全に自由とでもいえる、いわばバロック期の音楽を奏でる存在において、本当に理想的というか、これは自動的にCD購入してしまう、そんな存在であるかのように、改めて痛感させてくれます。

だから、そんな演奏家ですので、次のバッハのパルティータ第2番も、耳に入ってくるのは、音楽そのもの。レツボールがどうしたとか、こうしたとか、そういった事は殆ど記憶にありません。とにかく、不足もなく、過剰さも無い「ありえない」音楽を全身で集中して受け取った、そんな印象に尽きるのです。でもそんな状態で記憶を掘り起こしてみると、冒頭のアルマンドの晦渋な歩みと、その後のシャコンヌに向けたスパンの長いクレッシェンドのようなプロセスは、このパルティータ第2番にストーリー性をレツボールは読みとっていたのかなとも思いました。

会場の自由学園講堂は、近代的なコンサートホールのような防音装置は全くありません。外を時々忘れたように走る自動車の音、そして鳥の鳴き声が演奏中でも薄い窓から忍び込んでいます。でも、満員の会場では、これまたあり得ないような静けさの中でレツボールのヴァイオリンにほぼ全員が集中して耳を傾けています。そして、ガラス窓から差し込むのは、春から夏に向かう柔らかさと真夏の照りつけを交錯したような太陽の光。音楽を主体的に聴くことが持っていたはずの失われた豊穣さのようなものが、再び舞い降りた??そんな錯覚を覚えたのは気のせいでしょうか。明日館講堂の響きすぎない、かつ柔和なピリオド系に相応しい響きがレツボールのヴァイオリンを、包み込んでいたように思います。

バッハの終演後、当然のように猛烈な拍手。さすがにアンコールは無いだろうと思ったら、レツボールが弾き始めたのは、なんと、ビーバーのロザリオのソナタから最後のパッサカリア「守護天使」。前回の来日では、トッパンホールでロザリオのソナタからの抜粋として、この作品を聴くことができたのですが、まさかこれを再び聴けるとは。明らかにカトリックの持っている神秘性を凝縮したかのようなこの作品は、だからこそなのか、時空を飛び越えて、人間が生きることの、根元的かつ猛烈な孤独さ、それは近代社会を生きる我々に対する問いかけのように響いてくるのは、私の気のせいでしょうか。

終演後、サイン会があったので、持参したアウフシュナイターのCDと、レツボールがコンマスをやっていた時代のハーゼルベック指揮ウィーン・アカデミーによるシューベルトの交響曲第5番と「未完成」(これ以上にショッキングな未完成は今でも無いでしょう)を持っていったら、喜んでサインして頂けました。本当に嬉しい限りです。なお、公式ブログにレツボールのサインの様子が掲載されています。この当方はこの後ろでじっと並んでいました。

3日と4日の模様は、高音質で有料ながら既にダウンロード可能に

この目白バ・ロック音楽祭の模様は、ぶらあぼの音楽配信サイトブラビッシモにて、猛烈なスピードで順次アップされていて、192kbの高音質でダウンロードが可能です。レツボールが登場した2公演についても、現時点では4日の無伴奏ヴァイオリンの公演は既にアップされているという、驚異的な速さです。試聴してみたところ、当日の響きを良く捉えていると思いました。CD-Rにも焼けますので、あのシャコンヌやビーバーのパッサカリアをCDで聴けるというのは、望外の喜びです。

究極のシャコンヌ~ドイツ・バロックの無伴奏ヴァイオリン音楽Part1/レツボール
究極のシャコンヌ~ドイツ・バロックの無伴奏ヴァイオリン音楽Part2/レツボール
慈愛の“聖人”ソナタの世界/レツボール&リクレアツィオン・ダルカディア

目白バ・ロック音楽祭は、まだまだ始まったばかり。今のところ、切符を押さえてあるのは17日の寺神戸氏によるヴィオロンチェロ・ダ・スパラによるバッハの無伴奏チェロ組曲だけですが、今まで切符確保しても所用で放流してばかりのニコラウ・デ・フィゲレイドの実演は触れたいだけに、24日もしくは25日は聴いてみたいと思っています。

目白バ・ロック音楽祭は、地域振興としてもとてもユニークな試みだと思いますので、今後も大きく期待したいと思います。そういう意味では、もう少し聴衆を地域へ巻き込む仕掛けがあっても良いのかなと思いました。街歩きのような、地域資源発掘に関わる企画と、コンサート関連の企画が、ちょっとずれているようで、音楽を聴きに来た方であっても、いつも通りコンサート直前にやってきて、直ぐに帰ってしまう、そんな行動を取らせないような工夫があっても良いのかなと思いましたが、そのあたりの個別企画の相互作用は、今後の楽しみだと思いました。

ところで明日館。ここはコンサートだけではなくて、イベント会場といてもすっかり周知されているのでしょうか。この日、本館では二件の結婚式。春と夏の入り交じった日差しが、明日館を囲むように咲くバラの花を照らして、その向こうではジューンブライドの儀式が執り行われる、そんな6月の日曜日の昼下がりの出来事。日常の繰り返しのようで、実は非日常でもある、今から思うと、あらゆる意味で日常生活が揺らいだ日曜日のひとときだったように思い出されます。
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 Comments(7)

#1: Posted by *vice- @ June 11, 2006 [REPLY]
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最近、あまりに何も、行ってない買ってない聴いてないので、
さすがに、古い・少ない情報ベースで、コメントを書いてよいものか、
とだんだんと自信がなくなってくる今日この頃なのですが、

「自動的に」を誘発するレツボールという現象ですが、
誰しも語りたくなるような、多くの要素を含んでいると思います。

我ながら、自分のトコにでも書いとけや、と思いますが、
よそ様のコメント欄だからこそ書ける、という感じもありますので、
どうかご容赦下さい。... ちょいホントすみません。。

I. たぶん、一見して明らかなのは、やはり、
これまでの、「プロテスタント的」「人がいて神がいる」
「音楽家の表現」「近代的アート」みたいな感じの
クラシック音楽や、その延長であった古楽に対して、

「カトリック的」「神がいて人がいる」
「抽象的調和」「前近代的アルス」
という古いコンセプトを、新たに提示していることだと思います。

#2: Posted by *vice- @ June 11, 2006 [REPLY]
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II. しかし、次に気がつくのは、アルスには文字通り
人為・作為があるということです。

実演はどうだか知らないので、あくまでCDについてですが、
聴いてみて、明らかに作られたもの・狙われたものである、と感じます。
逆にそうでないと、「毎回」自動的に買うことはありません。

飛躍しますが、私的には、どうしてもここで、
背後にいるプロデューサーに目が行ってしまい、

レツボールの演奏と同時に、Lorber博士とBernstein氏の作為・問いかけが
聞こえてくるような気分にさせられてしまいます。

単に個人的な想像の飛躍で、
実際に arcana-WDR3 のケースで、演奏家の音楽作りに
どれくらいプロデューサーが関わっているのか、
実際のところはよく分からないのですが、

ブラビッシモで試聴する録音だと、とてもニュアンスに富みながらも、
単にライブである以上に、「すっぴん」な感じがして、
これは、関与の疑いが濃厚に感じられるスクラ氏のケースと、似た印象を受けますし、

演奏者の関心を重視すると公言するHMFのレパートリーとは
やはり方向性が違っているように感じます。

#3: Posted by *vice- @ June 11, 2006 [REPLY]
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III. こんなにマイナーなものを、ふっと出してきては、
十分すぎるほどに圧倒し納得させる、という線を狙うということは、

単に、これまで評価されてきたから、凄いんだろう、ということで、
とりあえず、その周辺を古文書館に行って調査して、古い奏法をふまえて、、、
ではなく、

これまでの美学的な歴史を把握して、
自分で、今現在において提示すべき良さとは何か、を考えて、
先例の少ないものを自分でアタックして探してきては吟味し、
目星がついたら改めて検討し尽くす、ということになり、

単に音楽史や演奏慣習などに留まらない、
もっと一般的で広大な知性が、広く必要になってくるわけで、

「音楽屋が、かなり賢くなることを迫られている」のを感じます。
ヨーロッパの大学でやってそうな人文系研究な方向性で。
ジャケットデザインとかもそっち系の趣味だし。。

独断と偏見で申し訳ないけど、完成度という点から量ると
たぶん、レツボールとそのプロダクションを支える人たちは、
例えば、旋風を巻き起こした時代のスクラ氏のチームよりもさらに「賢い」感じがします。

#4: Posted by *vice- @ June 11, 2006 [REPLY]
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IV. 賢くなることは、こうした "鑑賞" する類いの音楽を、
これまでとは比べ物にならないくらい、
「知的にスリリング」な状態にしてくれるのですが、

一方で、前のエントリーと関連して、
「並」の人間が、いままでのように音楽を語るのが、しにくくなっている、
という状況も生んでいる気がします。

もっと、情報を集め、広く深くガンガン勉強して、いっぱしの意見を考える、といった
「かなり」アクティヴな生活習慣が、暗黙のうちに、要求されている、と、
(誰もそんなことは要求していないのに)自分の中にそういう意識を持たされてしまう。

まだ、巨匠が経験ベースでカリスマ的に語り、評論家が電波的に宣い、
「通」レベルで何とかなっていたクラシック音楽の敷居の高さ
の方が救いがあるくらいです。

#5: Posted by *vice- @ June 11, 2006 [REPLY]
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V. ところが、その「無知の排除」の意識から解放されるためには、皮肉にも
そういうアクティヴな生活習慣をしてみるのが、結局、一番早かったりして、
ダレた私たちには、ハードルが高くてなかなか悩めるところ。

もしかすると、そのうち、「生活習慣の変革」というキーワードが、
新しい古楽の流れの中に浮かび上がってくるのかもしれません。

ただ、ハードな趣味は、広がりを持ちにくくて大変ですし、
「無知の排除」(「まずここまで勉強してから語ってね」)は
お世辞にも美しいものではなくて、
この問題は、正直なところ、どうしたら良いか分かりません。

とりあえず、いま何か大きな転換点にいるようなので、
とりあえず、自分なりに何か行動して、試行錯誤してみよう、と。
書かれた文章は、流れの重要な軸になる、と。
SEEDS ON WHITESNOWのコンセプトにつなげて、ゴマを擂りつつ、
長文のお詫びに代えさせていただきます。。

#6: Posted by 管理人 @ June 13, 2006 [REPLY]
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すみません、本当にわざわざありがとうございます。

なかなか良い御返事にはなっていないのですが、、、ファイのハイドンとあわせて、御返事させて頂くと、、、

>実演はどうだか知らないので、あくまでCDについてですが、
>聴いてみて、明らかに作られたもの・狙われたものである、と感じます。
>逆にそうでないと、「毎回」自動的に買うことはありません。

どちらかというと、レツボールの生の体験は、CDの印象を再確認したという印象を持ちました。当日聴いた演奏、特にバッハの無伴奏やビーバーのそれは、やっぱり「カトリック的」「神がいて人がいる」「抽象的調和」「前近代的アルス」という表記が、ぴったり合うような含みを持っているのではないかと。

では、レツボール一座のSymphoniaやArcanaの諸録音が、「明らかに作られたもの・狙われたものである」というわけではない、ということではなく、これはやはり表には登場しないプロデューサーの力を、はっきりと感じるわけです。

いつぞやのコメントの御返事も記しましたように、若きビオンディやアレッサンドリーニの録音を、スクラ氏のOpus111、ベルンシュタイン氏のArcanaで聴くと、同じヴィヴァルディでも、椅子から転げ落ちるのではないかとおもうくらいに、違いがあります。

用語として相応しいのかどうかわかりませんが、パッケージとしてどのような「アウラ」を持たせるのか、それがはっきり違うのでしょうね。ざっくり表現すれば、ラテン的な感性を充填したOpus111、欧州の宗教的・知的営為の積み重ねを背後に感じさせるArcana、、、といったところでしょうか。

このような「アウラ」の持たせ方は、そのアウラが知的作業(と思われる営為)によって底上げされている分、たしかに語りたがる欲望にとっては、ハードルをあげられてしまった、という印象を持つと思います。

まあ、私はそこの「アウラ」の底上げに対しては、かといって第三者による情報が無ければ、その「アウラ」の是非について思ったり考えたりする機会が無いだろうということで、思いっきり開き直って書いているわけですが。時々勉強不足と言われてもしょうがないだろうと。

ところで、この「アウラ」も、CDやレコードという、「パッケージ」という商品形態に大きく依存していることも、たしかだと思うのです。となると、NMSとかiTMSのシェアが拡大した時、そのような「アウラ」が存続できるのか、それとも形をどのように変えていくのか。それはそれで興味有ります。

なので、ファイとハイデルベルク・シンフォニカーによる演奏は、そのようなパッケージでこそ可能な「アウラ」という賢さの集積を越えて、演奏そのものが驚異に満ちているわけです。そちらの方が、語りたいという欲望をストレートに喚起してくれますし(だから、私も2004年の時点で取り上げたわけで)、音楽配信というメディアにも、馴染みやすいのではないのでしょうか。

もう少し、WEB2.0(blog)による国民総語りたがりのプラットフォームとしてiTMSやNMSが姿を整えたとき、もしかしたら、過去になりつつある、「巨匠」を軸とした語ろうとする意欲が、顕在化するのかも知れません。

ただ、今回の2公演や前回の来日公演のロザリオ抜粋では、全て解説はレツボール自身が書いているので、演奏家自身が語りたがりではないかと思います。古楽の演奏家が、聴衆の関心に合わせて語っていく、また、聴衆の語りたがりを対話等を通じて喚起していく、そんな態度が、古楽というジャンルでは生き残りとしては不可欠かもしれません。武久源造さんのコンサートが大好きなのも、そのためかもしれないです。

#7: Posted by *vice- @ June 16, 2006 [REPLY]
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> CDの印象を再確認したという印象

なるほど。このあたりは実際に行ってみないと、というところですね。

> もう少し、WEB2.0(blog)による国民総語りたがりのプラットフォームとしてiTMSやNMS(引用者:ママ?)が姿を整えたとき

これは、確かに言えると思います。
本来、こういうマイナーなジャンルに向いていない「パッケージ」で、
高額 (チケット代・CD代はバカにならない) 多種少量な流通をする限り、

古文書館の一次資料どころか、市販されてる音の資料でさえ、
語るに安全なだけ触れ尽くすのが難しい、というところはありますね。

それで、いまは、開き直れる人だけが語れる。

ただ、「賢く黙っている」ような方々も

「対話等を通じて喚起」し合うには、
将来的にはいずれにせよ、ある程度の開き直りが
必要にはなってくるわけで、

書いて「おもいっきり滑る」のを、
悪いことではないと宣伝しておくというのもまた、
悪いことではないような気もします。

> NMSとかiTMSのシェアが拡大した時、そのような「アウラ」が存続できるのか、

案外、回線の高速安定と、パソコンの静音化あたりがポイントかと。

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